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三和60年史の裏話(創業者が語る創業の頃)

創業の頃 (大塚さん・鹿島さんとの出会い)

当社最大のお客様である大塚グループさんとの出会いには、その伏線とも云える徳島裁判所の一連の工事があった。

徳島裁判所は、昭和30年代後半に2期、3期、4期と次々と当社が建設省(現在の国土交通省)から受注、継続して仕事をしていた。

この工事は、電気は三和電業・建築は鹿島建設様…と、各社共に毎期、実質特命での受注だった。当社の現場代人は宮武君が2期~4期の全てを担当しており、建設省からは「良い仕事をしている」と、毎回、褒めていただいていた。

徳島大学大塚記念館(大塚講堂:昭和40年代)
徳島大学大塚記念館(大塚講堂:昭和40年代)

大塚グループ様との最初の出会いは、実は私も知らなかったのだが、後日、宮武君から話を聞き、その劇的な出会いに驚いたものだ。

彼の話では、大塚様で最初に仕事をしたのは昭和38年頃、徳島裁判所を施工中に台風が来た時だ…と云う。鳴門の大塚製薬工場様のボイラー室から電気室が水浸しになった…とのことで、出入りの鹿島様に「災害復旧の緊急依頼」が来たのだ・

この時ともに裁判所の現場をしていた当社に対し、鹿島様から「一緒に救援に行くか?」との依頼をいただき、復旧作業に汗を流したのが大塚様とのご縁の始まりであった。

あの台風では、ボイラー室・電気室だけで無く、架空の高圧幹線などが全部ひっくり返ってしまって、工場は全停電…全く動かぬ中、鹿島様と一緒に宮武代人以下10数名の職人が必死で復旧作業に打ち込んだ。

当時のボイラー室や電気室というのは、今のように立派な建物ではなく、屋根はスレート張り。このスレートが台風で飛んでしまった訳で、各工場からは「電気が無ければ何もできぬ…早く送電せよ!」との強いご指示の下、当社は復旧の応援…の軽い気持ちで行ったものが、電気の復旧が最優先となり…「急に責任が重くなりました」と宮武以下の職人は必死になって頑張った。

ともかく苦労はしたが、大塚様からは大変喜んでいただけ本人達は大満足であった…しかしながら、大塚様は(三和の名前は)ご存じなかった。

私自身、この話を宮武君から聞くまで、当社が大塚様の台風復旧に行かせていただいたことすら全く知らなかったが「なるほど!」と思い当たる事が、その後にあった。

それまで鹿島様と三和は、共に建設省からの「元請け同士」であり、何年もご一緒に現場を担当しているものの、鹿島様の下請けとしてご下命いただく事は無かったが、この災害復旧がキッカケとなり、おつき合いが始まっていった。

鹿島様とは、昭和40年、大塚記念館(大塚講堂)という、大塚製薬様が徳島大学へ寄付された物件をさせていただいたのが最初。

この物件では、鹿島様に鉄野さんという方がおられ、若くして亡くなられたが、当時は大塚様を担当する所長の1人であり、非常に男気のある方だった。

これは後日に聞いた話だが、そもそも大塚講堂を当時の大塚正士社長が徳島大学に寄付する際に、先の台風被害の復旧に尽力した鹿島様に感謝を込め「特命発注された」と。

この時に鉄野所長が(三和にも世話になったからと)電気工事は「三和に特命発注する!」と言われ、初取引が成立した…とのこと。

その後、鹿島様と三和との取引は大塚グループ様は勿論、大塚様以外でも拡大を続け、今や三和電業グループ全体で、鹿島様の東北〜九州の多くの支店でご愛顧をいただいており、感謝に堪えない。改めて鉄野所長のご冥福を祈り、深く感謝する次第である。