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三和60年史の裏話(創業者が語る創業の頃)

創業の頃 (大塚グループさんに基盤)

大塚グループさんとの最初の出会いは、先月号に載せた台風被害の復興工事〜大塚講堂の工事であり、鹿島建設様のお陰であった。

次にさせて頂いたのが大塚会長邸であった。昭和40年当時、会長邸は鳴門工場に隣接しており、当社の仕事ぶりは大塚様の工務部の目に留まることになる。

その後、当社は大塚製薬工場様(鳴門工場)から徐々に仕事を頂くようになって行ったが、当社が大塚様で最初の基盤が出来たのには、次のエピソードが有る。

それは昭和41年当時、当社が鳴門工場の古い工場の改造工事をさせて頂いた時の事。この工事は、大塚様から直接戴いた、初めてのまとまった工事であり、当社は徳島営業所でナンバーワンの技術を持つ篠原君が担当した。

確か、その工事が完成した翌日の事、大塚様の工務部長から電話があり「至急、鳴門に来る様に!」との事。声音から(これは怒っておられる)と感じ、私は高松から大至急、鳴門の工務部へ駆けつける。

「三和さん、今度の工事じゃが…あんな仕事をして貰っては困る!」言葉は叱っておられるのだが、工務部長の目が笑っておられる。

実は、大塚社長が現場を見られて(工務部長は)大いに叱られた…との事。社長は「これが本当の工事じゃ!君は今までどんな工事管理をしていたのか!」と叱られたのだ。

工務部長は「三和がこれ程の仕事をするとは、思ってもいなかった。これからも良い仕事をせえよ!」と言われ、怒っているフリをしたのは部長の独特の演技だった。

皇太子ご夫妻が大塚製薬㈱徳島工場をご見学(昭和46年)
皇太子ご夫妻が大塚製薬㈱徳島工場をご見学(昭和46年)

その後は、競争ではあったが、殆ど全ての工事に当社は呼ばれ、徐々に大塚さんでの元請業者としての基盤を築いていく事になる。

当時の大塚様は、大塚正士社長(当時)が40代後半、社長として厳しく全てをチェックされていた。この「厳しい社長の目に当社の仕事が留まった!」と私は感じ、このエピソードは終生忘れ得ぬものとなった。

昭和43年、大塚様は徳島工場用地として取得しておられた、13万坪の敷地に工場建設を開始。

まず大塚化学様が化学品工場を、続いてボンカレー工場を建設。昭和44年には大塚製薬様の医薬品工場Kl・K2工場がスタートし、大塚様の急成長が始まった。初期の輸液工場・オロナイン軟膏をベースに、オロナミンC・ボンカレー・そして最大テーマの新薬製造メーカーとしての挑戦が本格化。

いずれの工場も(現在の金額に換算すれば)億単位の電気工事であり、当時の当社としては目の回る程の忙しさとなった。

本社の方は、前川常務を始めとして、山田、天野、山内、安部、窪田、渡辺、野崎、山石と、大卒生を含め、逐次入社して来ており、中ば任せ切りの状態。

私は連日の如く、鳴門と徳島通い、その間を縫って業界の役員としてのお世話もあり、睡眠は5〜6時間の毎日、勿論、篠原所長以下、徳島の社員もよく頑張った。

この大塚グループ様徳島工場の一連の電気設備工事は殆どが大塚様よりの直接受注、当社の設計施工であり、今まで積み上げてきた技術と信頼が、一気に花開いたものと感じた。

昭和46年、徳島工場の竣工式は徳島で開かれたインターハイに合わせての開催となり、完成したばかりの新工場は皇太子殿下ご夫妻のご見学されるところとなった。

ご見学の当日、当社の社員は縁の下の力持ち…、万が一にも停電等の不手際が有ってはならぬ、緊張の中にも歓びに満ちた一日となった。

大塚製薬㈱様の新工場(昭和46年)
大塚製薬㈱様の新工場(昭和46年)