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創業者が語る創業の頃

創業の頃 (黎明期)

結婚して今里町から現在の桜町へ移った私たちの住み家は、戦時中の百姓家であった。藁葺きの平家建てで天井がなく、夜、青大将が天井の梁からドサッと畳の上へ落ちて来て、肝を冷やしたり、すぐ裏の一面の蓮畑からは夏は蛙の大合唱、そして猛烈な蚊群の襲来、正に田園交響曲であった。

その頃の一番の苦しみは、1日に2合1勺しか米の配給のない食糧不足による空腹、若い肉体労働の身に2合の米や時々頂く芋、野菜位では全く腹の足しにならず、百姓家へ買い物に行くにも、物々交換する衣類がまだ新世帯の2人にあろう筈もない。

母が今里町のご近所に行って大根、いも、玉葱など頂いて帰るのが精一杯であった。

私は神戸の三菱電機時代の惰性で、何とか辛抱できたが、子供に乳を呑ます家内は、思う様に出ない乳に泣き叫ぶ子供をかかえて大変であった。しかし何と言っても若かったし、(朝の来ない夜はない)と唇に唄をもって毎日の様に生きていった。

最初はラジオの修理(殆んどの家のラジオが故障していた。)ラジオの構造は知らなかったが、殆んどが真空管のボケ(これは真空管を火にあぶってやると生き返る)低トランスの断線(これは100Vにつなぐと断線箇所がひっつく)いよいよ真空管が断線しているのは、街のラジオ屋で新品を分けて貰った。殆んどお金を頂かなかったので、百姓屋の人はお米や芋などをお礼だと言って持ってきてくれた。山地は親切でお金を取らんと評判になって、次から次へと故障のラジオを運んで来た。

その内、焼けたモーターや、トランスも何とかしてくれと持ちこまれ、これは経験のある渡辺とか浅野君らを採用して専任とした。

その頃の百姓屋は、広い家に定額40ワットの電球1ケを長いコードで台所、座敷、風呂場とかへ引っぱり廻していた。これを5灯以上に増灯して従量制(メートル工事)にする工事が、次から次へと注文を頂き、仕事はいくらでもあった、B29に焼かれた戦災の家々を復興する大工さんからも、次々と電気工事を頼まれ、段々電工さんも増やしていった。

農家はそれまで発動機で仕事をしていたが、段々電動機に切変えてゆく、従ってその動力工事も次々とさせて貰った。

唯、今から思うと、金銭面で利益をあげる事を考えず、儲ける術を知らず、山地家の世帯は年中ピイピイ火の車であった。