今月の一言

2015年6月 創業者の妻、母を偲ぶ

代表取締役 山地真人 5月27日の早朝、母「山地敏子」は満89歳にて永眠致しました。自宅での10年余の闘病生活にピリオドを打ち、3年半前に逝った「父の元」に旅立ったのです。
 葬儀は、新聞掲載をせず「家族葬+極親しい皆様」に限定させて頂きましたが、親戚、古参の社員~OB社員、協力会社の皆様を中心に「和やかな葬儀」となりました。
 また弔電も数多く頂きました。ここに改めて篤く御礼を申し上げます。
 この葬儀でも申し上げましたが、これが最後だと思いますので「三和の創業者の妻」としての母を、この機会に「偲ばせて頂きたい」と存じます。
創業の翌年から大(だい)挑戦(チャレンジ)が始まった三和:
 三和の創業は1948年4月、その僅か2年後には徳島市で「戦後初の大型商業ビル」の電気工事を受注、三和の「挑戦の歴史」が始まります。これは、新技術に挑戦したかった父(創業者)と実業家の血を引く母との「2人3脚のスタート」でも有りました。
 当時、高松市内は一面の焼け野原、会社近郊に仕事は幾らでも有りました。現場への移動は徒歩か自転車の為、同業者が皆「近郊の現場」を望む中での県外の大型工事でした。
 この為、大手の竹中工務店様から「手を挙げる者は無いのか?」と云われても、設備会社は誰も挑戦しませんでした。
 そんな中、創業2年弱の最も脆弱な三和が「挑戦します!」と手を挙げたのですから、竹中様も多くの同業他社も「皆、驚いた」のです。
母のDNA:
 子供の頃、母から聞いた話ですが、母の祖父は明治時代「県内では知る人ぞ知る実業家だった」との事。母が女学校に通う頃には、事業規模は縮小していたものの、それまでの母は「お嬢様育ち」でした。
 終戦の直前、19歳で「自宅や会社が空襲で焼失」した事で母は逞しく成り、父と結婚した頃にはお爺さま譲りの経営者魂が芽生えて居り、これが徳島進出に繋がった模様です。
米の密売人と間違われる:
 昔、母に「人生で最も苦しかったことは?」と聞いた時、70歳近い母は目に涙を浮かべつつ「お米の密売人に間違われたことよ・・」と、創業期の話を始めたのです。
 この徳島での大型ビルの施工は、三和の「身の丈を越えるもの」でした。特にお米は統制品、工事現場で寝泊まりする父や職人さんが食べる米が手に入らず、これを母が高松から運び、現場で握り飯をつくるなど、現場を「縁の下で支えた」のです。
 知り合いの農家に頼み込み「やっとの思いで調達した米」を、1歳の私と共に背中に担ぎ、国鉄(現JR)で3時間近くを掛けて徳島駅に。
 駅では、何回も米の密売人と間違われ「駅前の交番で、命とも思うお米を没収された」その時、私は母の背中で気が狂った様に泣いていたそうです。
朝鮮戦争で倒産寸前に、耐乏生活に:
 この様に、父と母が2人3脚で頑張った結果、徳島での大型工事は軌道に乗って行きましたが、その刹那、朝鮮戦争が勃発、アッと云う間に「電線もパイプも全ての材料が急騰」したのです。
 職人さんへの給与は何ヶ月も払えず、知り合いの全てから借金し、資材の調達に駆けずり回った結果、現場は何とか完成しましたが、この借金返済に「4年余の耐乏生活」が待って居ました。
 この間、母は看護師となり家業と病院勤務を兼務、私は祖母に育てられ、家族は皆「早く返済して、白いごはんが食べたい・・」と成ったのです。
その後は順調・・皆様に感謝:
 その後の高度成長期、三和は大きく成長・飛躍しました。この間 母は金庫番として経理~資金繰りなど「三和の扇の要」でした。後年は井上さん(後の経理室長)との2人3脚でした。
 福利厚生面では、お茶・お花・俳句なども社内展開し、女性社員や若手社員、協力会社の皆様からも「肝っ玉母さんの様だ・・」と呼ばれた30歳代~数十年、多くの皆様に支えて頂いた「幸せな数十年」でした。
 その後、70歳代の後半からは体調を崩し、特に老人性の認知症が進み出した後は、厳しい日々が続きましたが、亡き父の「強い思い」もあり、最期まで自宅療養を貫きました。
 私は「母無くば三和は徳島進出も事業展開も無かった」と痛感すると共に、母を支えて頂いた皆様に、衷心より感謝を申し上げ、今月の巻頭言と致します。
皆様、本当にありがとうございました。

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