今月の一言

2015年2月 故 大塚明彦会長を偲ぶ

代表取締役 山地真人 皆様、ご案内のように日本を代表する経営者の1人、大塚グループ総帥、大塚ホールディングス会長の大塚明彦様は昨年11月28日に逝去され、本年1月21日に東京で、26日には鳴門の大塚国際美術館にて「お別れ会」が執り行われました。
 若輩者の私が、故大塚明彦会長を語るのは誠に僭越ですが、会長は私の人生で最もお世話になった恩人であり、お許しを得て「偲ばせて頂きたい」と存じます。
世界の大塚を創り上げた明彦会長:
 多くの方々が「大塚家は3代で今の大塚グループを創った」と云われます。初代の武三郎氏が四国の大塚に、2代の正士氏が日本の大塚に、そうして明彦会長(以降:会長)が「世界の大塚を創り上げた」と云われ、私も全く同感です。
 76年、38歳の若さで大塚製薬(株)社長に就任された明彦会長は「他社のモノマネはせぬ」と明言され、全世界の人々の健康に貢献する 革新的な製品を創造する。
 この実現に、大塚の全社員は「創造性の発揮を最優先せよ!」この、大方針を出されました。
 その後40年に渡り、会長は自ら先頭を切って「大塚はビッグベンチャー企業集団だ!」と、誰にも負けぬ程の努力を、亡くなる直前まで積み重ねられ、グループ113社、主要国の全てで事業展開する「世界の大塚」を創り上げたのです。
明彦会長のお陰で成長できた三和:
 私が大手での修行を終え、大塚グループ担当部門長になった71年当時、大塚様は「日本の大塚に大変身中」でした。徳島市に「13万坪の巨大な工場建設用地」を取得され、会長が建設委員長となって、数多くの工場を同時に建設されて居りました。
 その時「大塚製薬が発注する主要工場の全てを三和に特命発注して良い!」との、驚くべき社長指示が出て居たのです。
 これには私も驚きました。大塚グループ様は工事会社に対して非常に厳しい企業であり、建築も設備も「業者との癒着は大塚を腐らす!」と、厳格なる発注を徹底される中、「中小企業の三和に特命発注して良い・・とは!」三和は「この特命の歓び」をもとに全力投球したのです。
特命受注の歓びと厳格さ:
 特命とは競争が無い世界、当時の私は「最高の受注環境だ!」この感謝と共に、三和の創業者の「創業の魂:誠実一路の施工品質」と、日頃のメンテナンスの良さが「特命に繋がっている」と感じて居ました。
 しかし現実は「競争しての受注よりも厳しい」のです。若造であった私は、こんなに厳しい事を云われるならば「競争の方が良い」と感じる事も度々でした。
 しかしながら、この会長の お心「特命の有り難さと厳しさ」これこそが、三和と私自身が「大塚グループ様の中でプロに変身して行った」最大基盤となったのです。
三和がプロに変身・・の実態:
 具体的に申し上げれば、特命ですので、工場の企画設計段階から、電気~制御設備などの担当として、大塚様の計画部門の皆様と共に、企画立案にも参加させて頂き、「ああでも無い・こうでも無い」と試行錯誤を繰り返します。
 その上で、詳細な設計図にまで創って行くのですが、この過程で実にタイミング良く「厳しいご予算の提示」が有るのです。三和は「この予算」で、何とか知恵を絞り、必死で、寝る間も惜しんで技術力・品質力・コスト競争力を高めて行く・・この積み上げが「三和と私を着実にプロに」変身させて行った・・これが実態でした。
会長に助けられた三和と私:
 三和は中小企業ではありますが「設備屋」です。設備屋三和は、大塚グループ様では「様々な設備の中枢を任される事」も少なく有りません。
 気設備や制御システム・特殊空調設備は、工場や研究所の事業に、時には「大きく貢献」し、時には「大きなご迷惑」も掛ける・・三和は、特に大塚様では「ハイリスクな役割」を担って参りました。
 大塚様と三和は50年の歴史があります。私が2代目経営者として担当部門長となった71年からでも43年強、この間、私は何度も「クビを洗って大塚様トップを訪問」したものです。
大迷惑をお掛けした三和と私:
 恥を申し上げます。78年に、13万坪の徳島工場群の、「全ての工場を停電」させた時、会長は社長になられて3年目の頃でした。
 83年には三和プラントE㈱を設立し、多くの工場~研究所の監視制御の設計施工に挑戦。この挑戦過程では大塚様と共に新システムを開発する等、多くの貢献を致しましたが、時に大きなご迷惑も掛けました。
 また99年に特殊空調工事の三和空調㈱を設立、私は「電気だけで無く特殊空調技術も観て下さい!」と胸を張り研究所・等の高度な空調改造工事に挑戦。少なからず貢献できたと感じる反面、まだまだ不足の面も多く、今も日夜、全力で頑張っている次第です。
 とまれ50年間には、大きなご迷惑をお掛けした事も1度や2度では有りません。その時、私は「損害賠償だけでも何億・・もうダメだ、三和は倒産だ・・」と覚悟を決め大塚様のトップを、時に会長を訪ねました。
 その時「三和には大塚が小さい頃に無理を言ったからの・・」と、一切の損害賠償を云われず、「従来以上に、誠心誠意で頑張るように!」とのお言葉を頂き、私は何度も感激の涙を流したのです。
 このご厚情に応えるべく、私は 「一度、潰れた三和だ、死ぬ気で頑張ろう!」と、多くの問題解決に、全力で、且つ、必死で挑戦し改善して行った事を、昨日のように鮮明に思い出すのです。
私が財団の評議員に・・何故?:
 会長が理事長として情熱を注がれた社会奉仕事業に大塚敏美財団(以下財団)が在ります。07年の財団設立時、会長が「山地君を評議員の1人に!」と指名された際、私自身は勿論、多くの関係者が驚きました。大塚の親戚でも無い山地を・・中小企業社長の山地を・・「何故だ?」との声が上がったのです。
 会長の回答は「山地君は中国で頑張ってるからな・・」でした。三和が中国で最初に頑張ったのは、82年~83年に大塚様が中国天津市に、我が国の製薬業界で戦後初めて、新工場を建設された時です。
 この時、三和は4名の技術者を数ヶ月派遣しましたが、この「昔の事」を明彦会長は覚えて居られたのです。
 更に 三和自身が2001年に中国に進出し、同業の誰もが(リスクが大きい為)やろうとせぬ、日系工場の建物~全ての設備のメンテナンスを、増改築一式工事と共に事業展開していますが、これもご存知でした。
 特に中国三和は(国際業務の常識に反し)裏のお金など一切使わず、真摯に全力で頑張っていますが、これは茨の道。この三和の社員の「ひたむきな努力を評価して頂いた!」と私は、涙が出るほど嬉しかったのです。
会長のお陰で社会貢献への光が!
 私も66歳、近い将来、三和の社長を譲り、中小企業ながらも「明彦会長の様に社会に貢献したい!」と、強く考えています。
 既に三和では「グループ各社の毎期の税引利益の5%を社会奉仕させて頂く」と ルール化し、10年余り継続しています。これが出来て居るのも、会長の「お心に触れさせて頂けたお陰」です。
 今後とも三和電業グループ社員は、大塚グループ様に「ご迷惑」もお掛け致しますが、我らは身を粉にしても更なるプロ集団となり「更に大きく貢献させて頂きます!」 
 そうして会長の千分の一でも「広く社会に貢献」して参ります!
 お別れに際し、深く頭を垂れ、このことを会長にお誓い申し上げ、尽きる事なき感謝のまごころを捧げる次第です。ご冥福をお祈り申し上げます。
 どうか、安らかにお眠り下さい。(合掌)

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